彫金の師 故「藤原蒼雲」

藤原先生には25歳頃に彫金学校で始めてお会いしました。

当時は鏨を使ったメレーダイヤの彫留めを習うためのクラスでしたので彫金の伝統や様々な技法のあることも何も知らず、早くダイヤを留めてみたいと思ったものでした。

左手にタガネを持ち、右手にはオタフクといわれる小さなハンマーでタガネの頭を叩きながら彫るのですが、タガネの頭の芯にハンマーが当たらず時には空ぶりになったものです。タガネ先端の彫り具合を注視しているので、ハンマーは自然にタガネの芯を叩けないとなりません。

1年半を過ぎても四分タガネの直線彫のみの授業でした。私は彫金を学ぶには歳が行き過ぎていたのでこの機会を逃がすと後が無いと思い、勤務後も毎晩部屋で銅板に彫り続けました。

2年コースもあと半年に迫る頃15人の生徒の中にミキモトに勤務されていた大御所の女性が声を上げ、早く留めを教えて欲しいと言い出しました。

それでようやく彫留めに移っていった記憶です。ですからクラスでは実践の作業を身に付けるところまでは達しなかったと思いました。

クラスの終了後は自身で工夫せざるを得ず曲がりなりにもタガネが使えるようになった、と思うのは5年後位です。勤務していた諏訪精工舎で宝飾時計製作の黎明期にこの学びが生きました。

今となって藤原先生の毎回直線彫りの意図が判ります。立体的な形状にもタガネに追従してオタフクが正確に当たることの重要さが。

後になって知ったことですが、藤原氏は秋田県出身で伝統工芸士であり、中学生のころからこの伝統彫金に関わってこられていたのですが、クラスでは一言も話されませんでした。

私との接触の中で時計に興味を持たれた様子で亡くなられる1年前に処女作の万葉時計を観てもらいに伺った折の藤原氏の伝統工芸技法を駆使した提げ時計の映像が最期となりました。

象嵌に中に更に象嵌を入れ彫崩しで創り出しています。そこに使う微妙な色合いの貴金属地金までも作っていました。江戸時代の名品のようでした。

とても現代人には及ばない文化財級の風合いに伝統彫金の奥深さを垣間見ました。とても藤原氏の真似さえできません。

それで私は古き伝統的技法を今に生かしたモダンで洗練した作品へのデザイン創始に取り組むことで藤原先生への手向けの花にしたいと思っております。

ご冥福をお祈りいたします。

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