リリース

小嶺忠敏さまのご冥福をお祈り申し上げます

本年、1月7日にサッカーの名監督であった小嶺氏が70歳代の若さでお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りいたします。

遡ること2006年5月に当時国見高校の校長をされておられOB会より依頼された退職記念としてご夫婦の記念時計を製作した思い出が蘇ります。会場には卒業生500人以上の関係者がおられ盛大なものでした。この時初めて長崎に行きましたが機内から下に見える海辺と島嶼の美しさを今でも思い出します。小嶺氏は背丈は大きくなない印象でしたががっちりとした体格でまるでダンプのあだ名に当てはまっていました。そのごつい印象と機内からの眺める風景があまりに対照的なので良く覚えているのです。選手のために自宅の庭先に寮を建てられていたと聞きその年に信州のふじリンゴをお贈りしましたらお礼の手紙が届き繊細な達筆さに恐ろしさが浮かんできた記憶です。先生の座右の銘は「熱」でした。何ごとも打ち込むと熱が発生しますからね。

依頼された時計は「サッカーボールをモチーフにし17回の優勝回数をダイヤモンドで表して欲しい。」という事でしたので外装、文字板とも18Kで製作した手巻き機械式時計としてデザイン製作したオーダーメイドのものでした。

アンティーク時計「ジラール ペルゴー sea-hawk」をスケルトン仕様に

60年前に製造されたGirard-Perregaux sea-hawkの手巻き時計を所有されるコレクターからスケルトン仕様への作り替えを頼まれた。その事由は幾つか重なっていた。話を伺うとムーブメント裏面が綺麗な事。竜頭が接手巻真であり竜頭を取り外す時、力ずくで引き抜かねばならずムーブメントが壊れそうに感じる事。内胴と裏蓋がステンレス一体で作られているが、フレームは14K製の枠で内胴に被せるように取り付ける一昔前のものだった。。非防水。それで18KYG製内胴と裏蓋を2部品として新規に製作し、防水パッキンを入れて防汗とし4本ねじで固定するよう作り替えを行った。サフャイヤガラス超しにムーブメントの作動も見えるし竜頭の取り外しは裏蓋を外したあとオシドリ止めねじを緩めて安心して巻真から抜けるようになります。総厚はオリジナルと変わらずでしたが、側面視がやや厚ぼったく感じる傾向が少し残念ではありましたが想定の範囲でコレクターから予想以上に良く出来ているとの発言でした。併せてバンド取り付けのバネ棒穴が長年の使用により摩耗し穴径が大きくなっていたこと、バネ棒穴がラグを貫通しているのでめくら穴に変えたいとの要望を叶えるため別部材をラグ外形に少し突き出させてろー付けを致しました。コレクターさんの感性も優れていました。ムーブメント全受けに注油し組み込みましたのであと10年はよいのではないでしょか。写真は裏面から見たものです。

「メレリオ ディ メレー」特製バンド製作依頼

大阪のデパート内にある専門店様からたまご型をしたホワイトゴールド製時計の特注バンドの製作依頼があった。メールに添付された画像は映りが悪く素敵な時計には見えなかったのですが、実物が手元に届き眺めてみると良く練り込まれた優美なデザインでした。MELLERIO dits MELLERという最古の宝飾ブランドとの事でした。文字板には極めて繊細なローマ数字、たまご形の球面ガラス、凹みのある文字板形状、ふっくらした裏蓋、立体感のあるラグ、それと上下の寸法違いの革バンド付きという個性的ですが優雅な雰囲気のある時計でした。ムーブメントはETAクオーツ内蔵。依頼はこの時計に合わせた貴金属の18KWGバンドの製作です。繊細で優美な雰囲気を損なうことのないようなバンドデザインにすることに気を掛けました。ブロック調のバンドでは全く合わないことは明白でしたが、幸い編みバンド様式を使えば良いと瞬時に思い巡りましたので、これに沿って製作し金具も三つ折れとすることで製作終了したバンドは写真のように取り付けました。本体の意匠に調和していたので客先からも気に入られると確信していましたが、その通りでした。

製作が終わっての感想は、他のブランドに触る機会は時に良い刺激になります。造りも見れるのですが、このようなデザインをカタチにし作品にされたブランドとスイス時計工房の造形力に感銘を覚えます。そのブランドらしさの表出は極めて大切ですね。

柿本人麻呂 無常を詠む

「諸行無常」と聞けば、教科書に載っていた二つの作品を真っ先に思い出すのではないでしょうか。

1.平家物語「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の・・」

2.方丈記 (鴨長明1212年)「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶ・・」

どちらの作も鎌倉時代(1185-1333)成立と言われています。やや悲哀のある響きを併せもっていて厭世観がにじんでいるように感じていました。

ところが、柿本人麻呂歌集出の下記の万葉歌は洗練しシンプルで明快簡潔。

無常を意図しているが醒めた目であり、冴えているのが良い。無常を詠む場合、回りくどいのは気に障るのでこのような詠みは好印象です。

巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫の如し 世の人吾等は (万葉集7-1269)

(まくむくの やまへとよみて ゆくみづの みなわのごとし よのひとわれは)

しかも「平家物語」や「方丈記」成立の500年前に詠まれた和歌であり、この二人の作者は、この和歌を下敷きにして敷衍したのではと思えて参ります。

ですから、現代の教科書にも人麻呂の7-1269を是非とも併載して欲しいものと思います。

このように簡潔、シンプルな表現は上代からの日本人の持つ美意識であり、近代の足し算ばかりの商品と一線を画す引き算の美があります。美しく簡潔な作品に親しみ囲まれていると陰翳を感知する豊かな感受性が獲得できそうに思えてきます。

人麻呂はこの「無常」を詠んだ和歌の故地で「希望」を詠むことも忘れません。

巻向の 痛足の川ゆ 往く水の 絶ゆる事なく またかえり見む (7-1100)

穴師川の流れに乗せた「の」と「ゆ」の3音を僅かの時間差で出現させながら「ゆ」音が効果的に耳に残り流麗な律動を作り出しています。

令和和歌所へ寄稿 https://wakadokoro.com/category/contribution/

タマゴ茸のパスタ

令和2年、7/16朝5時にタマゴ茸の白い幼菌の発生を見つけその後4日間の生育を写真に収めました。その成長の様子にほのかな歓喜さえ覚えて来ました。

白い「つぼ」の頭部から顔を出した赤色の傘は半日の間にみるみる成長します。

動画を観るような感覚になります。温度、水分、光の条件が揃うと怒涛の勢いです。

このように健やかに速やかに成長する菌糸体は虫も付き難く伸びやかで美しい。

これはヒトにも言えるかもしれません。生育期にストレス無く健康的に育てたいのは、茸の生育からも想像されます。あと、土壌と環境も大切です。

7/19の夕に採取してタマゴ茸のパスタに料理しました。

傘の赤オレンジ色がパスタに絡まり食欲をそそります。うーん美味!

採りつくさないよう、胞子の拡散と来季の為にもいくつかの茸を残してきました。

柿本人麻呂 弓月が岳を詠む

あしひきの 山川の瀬の 響るなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る (万葉集 7-1088)

柿本人麻呂歌集出の万葉集1088の詩には雄大でかつ澄んだ瀬音と雲や蒸気の動きまでも感じさせる文学史上の白眉と感じざるを得ません。偉大な詩です。1300年経てもなお現代人に感銘を起こさせる。時の試練を超えて現代に生き残っていることの驚異。賀茂真淵や斉藤茂吉、梅原猛氏に動機を与え続ける事実に言葉の持つ力と大切さを痛感いたします。日本の宝です。

あまりに雄大な印象ゆえに2000m超えの山並みと感じてしまうのですが、海抜は低く三輪山467m、巻向山で567mです。「たたなずく青垣 山隠れる」とはこのような地域を指すのかと納得させられます。アルプスのような険しい岩肌ではいけないのです。

やまとことばの特性にも気を配った韻律、音の運びの心地よさ。

たった三十一文字で31音なのに読み手に清らかな川の音(眼の前)から弓月が岳の山頂(遠景)に視点を移動させ雲の上昇気流を眺めている様。

他の和歌を見れば古代にも巻向山は存在していて、言葉の創造者である人麻呂は巻向山から昇る弓の形をした月をみて「弓月が岳」と例えたのではないでしょうか。試に、

あしひきの 山川の瀬の 響るなへに 巻向山に 雲立ち渡る

と詠んでみますと「弓月が岳」の字句が極めて秀逸であることが判ります。

「響るなへに」と「響」を当てていることで瀬音も引き立てます。

弓月が岳は由槻や斎槻とも表記されるので古代には槻の樹(けやき)が林立していたものと想起されます。日本固有種であり大木ゆえ古民家では大黒柱に使われてきました。

そこで詩歌の詠まれた故地、弓月が岳の自然環境と産土神に触れてみたいと思い立ち、桜井市のボランティアガイド長をされた福本氏に候補地をガイドして頂きました。

2017年3月に「夏至の大平」、6月に「巻向山」に登拝しました。

登拝前には穴師坐兵主神社と十二柱神社に献饌、参拝を済ませました。

記憶に残る体験でした。巻向山へは途上、磐座を経由しました。

磐座祭祀ですと、出雲系の神々を祀っていますし、十二柱神社の住所は桜井市出雲なのが興味深い。

人麻呂の素晴らしい詩に感応していますと美しい言葉が響き、ものを観察する眼識までも磨かれ感性のヴァ―ジョンアップが図られるように思えてきます。この後も人麻呂作歌についての感慨を投稿してみたいと思います。

原文  足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

令和和歌所へ寄稿 https://wakadokoro.com/category/contribution/

彫金の師 故「藤原蒼雲」

藤原先生には25歳頃に彫金学校で始めてお会いしました。

当時は鏨を使ったメレーダイヤの彫留めを習うためのクラスでしたので彫金の伝統や様々な技法のあることも何も知らず、早くダイヤを留めてみたいと思ったものでした。

左手にタガネを持ち、右手にはオタフクといわれる小さなハンマーでタガネの頭を叩きながら彫るのですが、タガネの頭の芯にハンマーが当たらず時には空ぶりになったものです。タガネ先端の彫り具合を注視しているので、ハンマーは自然にタガネの芯を叩けないとなりません。

1年半を過ぎても四分タガネの直線彫のみの授業でした。私は彫金を学ぶには歳が行き過ぎていたのでこの機会を逃がすと後が無いと思い、勤務後も毎晩部屋で銅板に彫り続けました。

2年コースもあと半年に迫る頃15人の生徒の中にミキモトに勤務されていた大御所の女性が声を上げ、早く留めを教えて欲しいと言い出しました。

それでようやく彫留めに移っていった記憶です。ですからクラスでは実践の作業を身に付けるところまでは達しなかったと思いました。

クラスの終了後は自身で工夫せざるを得ず曲がりなりにもタガネが使えるようになった、と思うのは5年後位です。勤務していた諏訪精工舎で宝飾時計製作の黎明期にこの学びが生きました。

今となって藤原先生の毎回直線彫りの意図が判ります。立体的な形状にもタガネに追従してオタフクが正確に当たることの重要さが。

後になって知ったことですが、藤原氏は秋田県出身で伝統工芸士であり、中学生のころからこの伝統彫金に関わってこられていたのですが、クラスでは一言も話されませんでした。

私との接触の中で時計に興味を持たれた様子で亡くなられる1年前に処女作の万葉時計を観てもらいに伺った折の藤原氏の伝統工芸技法を駆使した提げ時計の映像が最期となりました。

象嵌に中に更に象嵌を入れ彫崩しで創り出しています。そこに使う微妙な色合いの貴金属地金までも作っていました。江戸時代の名品のようでした。

とても現代人には及ばない文化財級の風合いに伝統彫金の奥深さを垣間見ました。とても藤原氏の真似さえできません。

それで私は古き伝統的技法を今に生かしたモダンで洗練した作品へのデザイン創始に取り組むことで藤原先生への手向けの花にしたいと思っております。

ご冥福をお祈りいたします。